この世界では、
”言葉”が魔力を持っていた。

瑞希

花売りとハナミズキ

幼い記憶の細糸の先。見上げるは、両親。父は古書の匂いがした。母は春空の匂いがした。独りになった家で思うに、あれでさえも本当の匂いでなく、『言葉』の香りだったのだろう。空の家は花々の香りが満たし、私が通るたびに、香りは揺れる。渦を巻き、くるりとその場で踊って、柔らかに霧散する。見えぬ大気さえ、花があれば香りの動きで見えた気にさえなってしまう。
「……よかった。今日も、綺麗に咲いてて。」
 香りを揺らして乱した先、自室の窓から見える木を見遣る。──ハナミズキ。私の字、そのモチーフ。信仰心とこの言葉で、万年咲きとさせた私の信仰。その権化。
「ねえ。聞いて? 父さんと母さん、ウェンディアに行ってしまったでしょう。あれからもう、暫くは経ったの。貴方が春夏秋冬、毎日咲くようになってからも、暫く。……もう、万年咲きには慣れた? 懐かしいね。父さんと母さんが居た頃が」
 ハナミズキへの心が、自身の言葉により増幅する。信仰と共感覚。記憶との共振。言葉の一つ一つが夏空に浮かび上がる。思い出を引き連れて、引き込んで───


 ───とおくで、蟬の声がする。


「おとうさん。おとうさん、このお花、みたい」
「ン?……ンー。花枝。いいか。大事な事だ。花はな、季節に呼応するもの。季節の風に呼ばれ、季節の太陽と、季節の雨を受け入れるものだ。本来、無闇矢鱈と咲かせるものではない。が。──花枝。特別だ。可愛いお前にそうせがまれては、俺の魔術も唸るというものさ」
 父は、優れた魔術師であった。同時、恐らくは私を愛し過ぎている部類の親だったと思う。昔。花の種子を拾って来て、父にせがんだ。この花が芽吹くところを見たい。一度は断るような素振りを見せて、笑いながら聞き入れてくれた。
「花枝。いいか。大事な場面だ。よく見てろ。そして、よく聞くんだ。」


『萌ゆる息吹に肥ゆる大地。世の基礎こそ木々と花。枝葉一握さえ宝。一握此処に、芽吹き新たな礎とならん』


 その言葉を、よく覚えた。大事な場面だから。大事な言葉というから。それが詠唱なのだと気付いたのは、言葉に色と匂いが付いてから。
 ハナミズキが美しく芽吹いた。瞬く間に細枝が広がり、太陽を求めた。
「あら、ハナミズキ。珍しい種を拾ってきたのね。父さんの魔術でもないと、種から育てるのは難しいのよ」
 思い返す。脳内に、言葉が響く。母の音が、色を織り成す。美しく、二度は得られない私の過去。より鮮明に、より深く、過去が波として寄せる。


「……どうしても。やらなきゃダメ?」
「いいや。花枝。どうしてもじゃアない。だがいずれ、必要になる。お前の才は必ず。必ず誰かの役に立つ。その日の為だ」
 『共感覚』。ある刺激に対して、通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象。それを得て、得たと認知してから、数年後。魔術師の心得を学び始めてから、同じく数年後。確かに才はあったのだろう。発芽。成長促進。花の個性の特化──品種改良に近しいところまで。私はよく学び、よく覚えた。花・樹木に関しての魔術を学ぶ分には良かった。楽しかった。愛しいとさえ思った。けれど。
「──……わからない。父さん、私に軍に入れと言うの?」
「違う。……ちがう。ただ、伝えるべきではあるんだ。花枝。この激動の世、何があるかわからない。自分を守るんだ」
「でも。魔術の言葉は……飲み込みにくい。綺麗だけれど、とても“我が強い”。父さんの言葉も、そう」
 僅かに。父と私の言葉に、ズレがあった。そのズレは確かに僅かであったのに、きっととても歪で。歩み寄ろうとしても、摩耗するばかり。日々、ズレは大きくなっていく。
 父の家系は代々魔術師で、小さき神々──付喪神と呼ばれるものを信仰した。古書と通じ、これを読み解き。古道具と通じ、これを新品のように扱い。付喪神の宿るものであれば呼び寄せ、意のままの場所へ送る事さえしてのけた。私も付喪神は信じた。けれどそれよりも、花一輪々々に宿る小さき神々を信じた。だからこそ発生した、歪。


「そうか。父さんの言葉は──花枝。お前にとって、枷か」


 ある日、風鈴が割れた。それまで美しく奏でていた音色が劈くような音と共に鳴り止み、以降、鳴ることはなくなった。散らばった破片は元に戻せず、ただ、私の足元に散乱する。
 情景が浮かんだ。父の言葉が、割れた風鈴のようだった。「ごめんね、そういう意味じゃないの。共感覚さえなければ、父さんからの教えだってもっと楽しく学べたよ」。素直に言えたら、きっと良かった。


「枷なんて、私にとっては共感覚こそが。こんな風に捉える事がなければ、きっともっと、全てを愛せたの」


 ───私も、尊華の女の端くれで。割れた風鈴は、ひどく踏み付けられて。風鈴を割った私は、色と匂いにひどく惑わされて。父の言葉は、強かった。信仰との結び付きを感じた。色濃く、自身の存在を神へと叫ぶような。己の花々に対する信仰心なぞ、ちっぽけなように思える程の信仰心を──言葉で直接、殴られたような。ひどく、ひどく苦しい思いで。困惑、悲しさ、違和感。全てが混じって、感情を上手く捉えきれぬまま。正しく言葉を伝えられなかった、あの日を。私は、今も記憶の隅で後悔している。


 花売りを始めたのは、その後。人と話し、人の笑顔を愛し、花を渡し、花の魅力に恋し。全てが楽しく、全てが宝のように思えて。日々歩むだけで、私の足跡全てから草花が芽吹くのではないかと思うほどに心が弾んで。「天職だ」。父にも告げた。父は柔らかく笑って、「そうか。」と言った。あの日から、言葉数が少なくなった。父は私を愛しているからこそ、私に過度に気を遣った。
 ──だからだろうか。『イモータル』と呼ばれる新しき者たちが出現した頃、父は尊華を出た。母はそれを支えると告げ、同じくこの家を出た。私は一人でやっていける。その信頼があればこその選択を、私は引き留めなかった。


 ───蝉の声が、近くで響いた。


この家を満たすのは花々の香りだけ。時折空虚になっては、父が尊華を出た日に置いた手紙を、ハナミズキの前で読む。


『花枝へ
一人、置いていく事を許して欲しい。
お前が無事に花売りを出来る世の中になるよう、行ってくる。


余計な世話だが、花枝も魔術を学んだ身。花枝。私の宝。大事な話だ。聞いてほしい。
字を持つんだ。一人、何かあったときに、なくては困るから。』


 父さん。『ハナミズキの花言葉』を知っている? 父さんは、私が貴方を遠ざけたがっていると思っているかもしれない。貴方を嫌っていると思っているかもしれない。けれど、私は字を付けました。貴方が芽吹かせたこの木に誓いを立てて。貴方がくれたこの木に字を因んで。


『私の想いを受けてください』


 父のくれたハナミズキに、わかってくれない父への反抗心を少し乗せて、万年咲きの魔術を掛けて。万年、貴方への想いを咲かせ続けて。


 瑞希は、今日も無事に。花売りをしています。